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対談 ヤンネと割箸 

(ヤンネ舘野&舘野泉 デュオ・リサイタルに寄せて 12月11日東京文化会館 ほか)
インタビュアー 萩谷由喜子(ぶらあぼ10月号より)


(1)  ヤンネさんがピアノではなく、ヴァイオリンの道へ進まれたのはどのような経緯でいらしたのでしょうか。ご本人が幼少のとき、ピアノよりもヴァイオリンに興味を示されたのでしょうか? (萩谷)

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 ヤンネは3歳の頃から私がピアノを弾いていると割箸(フィンランドでも我家では食事に箸も使っていた)を持ち出して、ヴァイオリンの真似事をしていました。真似事といっても彼は本気で、私の弾いている音楽が割箸ヴァイオリンからも出てくるかのようにすっかり音楽の中に入り込んでいました。5歳の頃に小型のヴァイオリンを買ってあげると、室内楽の練習をしている時にもそれを持ち出して一緒に弾く(つもりになっている)ので、練習にならないと仲間たちにはよく文句をいわれたものです。
 東京に来ていた時には私の父のチェロを小さな身体でごしごし弾いて全然曲としての体裁も何もなかったけれど、私が勝手な伴奏の真似事をしてやるとすっかり満足していました。
ピアノもいじっていました。日本に来ている時にはペンタトニックで弾いて、侍の音楽をやっているつもりだったようです。6歳の頃だったと思います。フィンランドの先生につけました。そしたらヴァイオリンの練習をするのが嫌になって、毎日10分の練習をするのがやっとでした。それではもうヴァイオリンはやめるかというと、やめないのです。
 もともと私は彼に音楽家にはなってもらいたいとは思っていなかったので、一緒に弾く真似事はしていたけれどそれだけだったのです。自分がどっぷり音楽の世界に入り込んでいたし、この世界の裏も表も見ていたし、厳しい精進を要求する音楽の道に導くのは苛酷なことだと思っていました。
 彼は幼いころから絵を描くことにも素晴らしい才能を見せていたし、建築や設計にも才能があったし、文章を書くのにもよい素地がありました。成人してからは写真にも素晴らしい才能を見せました。だから私としては彼が絵描きか建築家になればよいと考えて(漠然とですが)いました。でも考えてみればどの世界でも入ってみればその道の厳しさがあるのは同じですよね。苛酷な厳しさと素晴らしい夢が表裏一体で同居しているのです。
 14歳の頃、彼は夏の講習会に参加して一挙に目覚めました。そのときに習ったエストニアの先生が火を点けたのだと思います。今まで毎日10分しかさらわなかった少年が毎日8時間も弾くようになったのです。なんでお父さんとお母さんは僕に無理にでもヴァイオリンをやらせてくれなかったのかと恨まれました。14歳にもなって音楽の理想は高かったのに較べ、技術は出来ていなかったから物凄く苦労しました。それからの10年ぐらいが一番苦労したのではないかと思います。傍から見ていても気の毒でした。ようやく自分の道を見出し始めたのは22~23歳頃からではないかと思います。 (舘野)



(2) 少年時代のヤンネさんは、どんな坊ちゃんでいらしたのでしょうか? (萩谷)

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 幼い時から、これは年子の妹サトゥに対してもそうですが、身の回りにいつも画用紙と鉛筆、クレヨンを置くようにしていました。絵を描きだすと二人とも夢中になって、絵を描くことから物語が出来歌が生まれ、遊びが動き出すのです。傍で見ていても楽しいことでした。野球も大好きで、日本にくるといつでも私と二人でキャッチボールをしたり、球を打つことなどして遊びました。彼は最初はおじいちゃん(私の父)と一緒で巨人ファンでしたが、暫くして西武に夢中になり、京都に住んでいる現在は熱烈なタイガース ファンです。
 小さい頃には妹のサトゥと2人を揃えて私が先生になって日本語学校遊びをしました。二人ともその遊びが気にいって嬉々として遊んでいました。マリア(家内)がピアノも習わせたいと思ったのですが、そうしたら大きな涙の粒を浮かべて「それじゃ僕の遊ぶ時間がなくなってしまう」というのです。それでピアノは習わずじまいでした。遊ぶことは凄く大事なことだったのですね。 (舘野)



(3)  先生の右手がご不自由になられて絶望しておられたとき、留学先から戻られたヤンネさんが黙っておいていかれたのが、戦争で右手を失ったピアニストのためにイギリスの作曲家が書いた作品だったとうかがっております。そのときの詳しいお話をおきかせいただけますでしょうか。 (萩谷)

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 この話は独り歩きをしているようです。彼がアメリカから持ってきたブリッジの「3つのインプロヴィゼーション」の譜面を見た瞬間にまた音楽の世界に戻れると閃いたことは事実ですが、マスコミで伝えられているように彼が私のまったく知らずにいた左手の世界を示し、その世界でやっていくよう示唆したわけではありません。
 他人のこと、特に父親のことは深く思いやる彼のことですから、病気で倒れてからそれまでも珍しくて、そしてあまり右手に負担のかからない曲を探し出しては譜面を持って来てくれました。たとえばトゥーリナの「子どものための小品集」ですね。私が音楽をすることなしには生きていけないことをよく知っていたからです。でも、それらの小品も病を得た私には難しくて弾く気にはなれませんでした。それでブリッジに行きついたわけでしょう。
 私は芸大の学生時代から左手の音楽があることは知っていましたし、70年代にはその中の幾つかは演奏会でも取り上げていました。スクリャービンやリパッティーの作品です。ラヴェルの「左手のための協奏曲」は学生時代からあらゆるピアノ協奏曲の中でも名曲中の名曲と惚れこみ、演奏家として活躍してからの40年間常にオーケストラに提案し続けていたものです。それでも40年間一度も弾かせてもらう機会は訪れず、いつでもブラームスかグリーグ、或いはプロコフィエフかバルトーク、或いはショスタコーヴィッチになってしまうのです。
 病気をしてから見舞いにくる友達が皆「ラヴェルを弾けばいいじゃない」と云いました。
 腸が煮えくりかえるようでした。40年間一度も弾かせて貰えなかった曲です。皆が慰めるつもりで言っているのは分りましたが、腹がたって「左手の曲なんて弾くものか」と思いました。復帰するのは右手が動くようになってからと考えていましたが、いつまでたってもそうなりません。ブリッジの譜面をヤンネが置いていったのはそういう鬱々とした気持ちが、そうして音楽に対する飢えが限界に達した時だったのでしょう。譜面を見た途端、音楽をするのに手が一本だの二本だのは関係ない、三本あってもいいし片手でも音楽は変わりなく出来ると思ったのです。一日おいて翌々日、日本の間宮芳生さんにFAXを送りました。一年後に復帰のリサイタルをするから左手の曲を書いてくだいと。間宮さんからはただちに返信がありました。「喜んで書きます。これは舘野さんの復帰にたいする僕のお祝いです」と。復帰演奏会のために間宮さんとノルドグレンが書いてくれた新曲を中心に据えて、2004年の5月に東京、大阪、札幌、福岡で演奏会をし、またステージに戻ることが出来ました。
 左手で復帰することについて賛成してくれた人は誰もいません。また、私としても誰の賛意を聞こうともおもっていませんでした。批評家の中にはわざわざお手紙をくださり、「ちゃんと右手も元のように戻ってから復帰するべきです。急ぐことはありません。すべてをきちんとするあなたの心の声に従ってください」と云ってくださった方もあります。お気持ちは分りますが、もしその忠告に従っていたら、病気をしてから10年も経った今でも何も弾けなかったでしょう。
 私には左手だけで弾いているという意識はありません。全身で弾いているのです。
 音楽は呼吸だと思っています。間宮芳生さんの左手のための作品は<風のしるしーオッフェルトリウム>といいます。すべて生をもつものはその誕生の時に風の神に息を吹き込まれて生を得、それが途絶えた時に亡くなるというアメリカ・インデアン「ナヴァホ族」の伝説によります。
 多くの作曲家の皆さんが次々と喜んで左手の作品を書いて下ることに感謝しています。
ピアノ独奏曲だけでなく室内楽があり協奏曲があります。そして「左手の文庫」に多くの方々が協力して下さることにも感謝です。風は途切れることなく吹き続けているのです。 (舘野)



(4)   2009年石田一郎氏の生誕100年で、代々木上原の坂のホールでオール石田作品の演奏会を聴かせていただき感銘を受けました。石田作品への思いをおきかせください。 (萩谷)

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 1969年の8月に石田一郎作のピアノ組曲<北国>の収録をしました。当時TBSにいらした石田さんが芸術祭放送部門で参加するためでした。<北国>の演奏には北に対する思いの深い人がよいということで1964年からフィンランドに居を移していた私が選ばれたのですが、それが石田さんとの初対面でした。石田さんとは親子ほど年齢が離れていましたが、お会いした最初の時から親友のように心を割ったお付き合いが始まり、それは石田さんが世を去るまで続きました。二人ともセヴラックを敬愛していたということも親交を深めたひとつの理由だったと思います。セヴラックの熱心な紹介者であったフランスのピアニスト、ブランシュ・セルヴァの著書「デオダ・ドゥ・セヴラック」の原書を頂きましたが、それには素朴で几帳面な書体で「1969年8月31日北国の録音の日に」と献呈の言葉が書かれています。
 2009年の石田さん生誕100年に際し、故人に捧げるつもりで石田作品の演奏会を企画し、また石田作品のレコーディングも行いました。左手だけになった私は演奏で参加することは出来ませんでしたが、40年前に録音した<北国>や優れた作品であるヴァイオリン・ソナタ第2番などを一枚に収めることが出来、石田さんもとても喜んでくださったことと思います。 (舘野)



(5)  平野一郎さんへの委嘱作品は、小泉八雲を踏まえたものとうかがっています。ノルドグレンの一連の作品も小泉八雲の怪談によるバラードでしたが、平野さんがあえて、小泉八雲に着想したのはどうしてでしょうか?  (萩谷)

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 平野さんの作品であるモノオペラ<邪宗門>の初演にヤンネはコンサートマスターとして関りました。それ以来平野さんの作品への傾倒を深めているようです。今度平野さんは<精霊の海~小泉八雲の夢に拠る>という作品を書いてくださいますが、少なくとも私は、作品との関りは実際の音に触れてからということにしています。作品に前もってイメージを持つことはないし、作曲者からの説明も受けたいとは思いません。作品が完成するのを心待ちにしております。 (舘野)



(6)  谷川賢作さんの作品は、先生とヤンネさんに捧げられています。ヤンネさんとの共演に対するご心境は? (萩谷)

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 若い時から私はすべての音楽に興味がありました。民謡や演歌、ジャズ、タンゴ、ファド、ロックなど分野は問いません。なんでも演奏したいと思っていましたし、実際にそうしてきました。それはヤンネも同じです。オーケストラにはコンサートマスターや第二ヴァイオリンの首席として関り、音楽をいろいろの角度から見てきました。バロック音楽、古楽器の演奏にも精通しているし、ジャズも弾く。自分のタンゴバンドも持って その分野でもよい仕事をしています。室内楽、現代音楽、協奏曲などとの境もありません。谷川さんはよい友人です。その音楽を弾くのに、また共演をすることに特別な心境や心構えもありません。ただ、お互いに、そして一緒に沢山の勉強、合せる時間は必要だと思っています。 (舘野)



(7)  ヤンネさんは少年時代から日本に憧れておられたそうですね。たいへんな努力をなさって日本語も習得なさり、今では日本の生活習慣にも溶け込んで、日本を拠点に音楽家として立派なお仕事をされておられます。そんなヤンネさんは、先生からごらんになってどんなヴァイオリニストでしょうか。 (萩谷)

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 彼を初めて日本に連れてきたのはまだ生後10カ月の頃だったと思います。
 羽田空港に迎えに来ていた父をみた彼が、初めて祖父と対面するにも関らず、両手を伸ばしてにこにこしながら抱かれていったのが印象的でした。それからはほとんど毎年のように日本に連れてきました。妹のサトゥも同様です。幼い時から日本の両親や従弟たち、そして日本の風習や習慣に、そして言葉に慣れていくことがとても大事だと思っていました。
 ヤンネは言語の習得に熱心でスペイン語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、英語、スウェーデン語は流暢に話します。現在は日本語もかなりよく話しますが、欲をいえば書けるようにもなって欲しいものです。中国語にも興味を持っていますがロシア語は未だです。
 どんなヴァイオリニスト(音楽家)だというのですか?人の心を思いやり、他人に対し心を開いた音楽家です。音楽を愛し、それに対して真摯な愛情を捧げる人です。風の音を聴ける人間だと思っています。 (舘野)



(8)  音楽家同士として、ヤンネさんとはよく意見交換をなさいますか?意見が対立なさることもおありでしょうか? (萩谷)

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 音楽家同士で意見を交わすことも意見が対立することもありません。もともと私が人と意見を交わすことには興味がないからですが、すべては音が鳴り出すところから始まります。 (舘野)



(9)  コルンゴルドの2つのヴァイオリン、チェロ、左手ピアノのための組曲というのは演奏機会の稀な作品ではないかと思います。これを選ばれた経緯をおきかせください。 (萩谷)

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 コルンゴールドの<2つのヴァイオリン、チェロ、左手ピアノのための組曲>は私が左手のピアニストとしてステージに復帰してから初めて取り組んだ室内楽曲でした。加藤知子さんが中心になってしているコンサートでしたが、加藤さんが最初に指定してきたのはコルンゴールドではなくフランツ・シュミットのピアノ五重奏でした。ところがこの譜面が手に入らないのです。フリードリヒ・ビューラーが両手用に編曲したものが出版され、演奏もされているということでした。それでコルンゴールドを取り上げましたが、演奏に40分を要し、極めて複雑精緻に書かれたこの曲に私は「室内楽の歴史におけるゴジラ」と命名しました。非常に難しい作品ですが、私たちの挑戦欲をそそり、以後何回も演奏しましたし、フィンランドでCD収録も実現しました。今回は新たなメンバーで新たな挑戦です。わくわくいています。 (舘野)


(「ぶらあぼ」より)


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